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森池拡張・石川善右衛門成一

石川善右衛門


承応3年(1654年)日照り続きであったところ、7月18日から降り出した雨は豪雨となり、

翌日には旭川の水は岡山城下のあふれ出て大洪水となった。

これは城下だけでなく備前藩の国中に及んだ。

当時の記録によると、流出破損家屋、侍屋敷439件、足軽屋敷573件、町屋443件、農家

22,248件、死者156人、荒廃した田畠、11,360石とある。

この時、藩主光政は、江戸より帰国中であったが、知らせを聞くと直ちに家来を先に帰らせ

て処理させた。

8月8日帰国した光政も、自分の目で確かめて、「この国から一人でも困窮者を出してはなら

ぬ」と言って、城の蔵えお開き米や銀子を国中に施し、足らぬ分は借金までして施した。郡奉

行も手不足であろうと、馬廻りの中から優秀な十人を選び郡役所に派遣した。

石川善右衛門は児島の郡ぶぎょう香取茂右衛門の手助けに配属された。

復旧工事が一段落すると皆、元の持ち場に帰ったが、善右衛門は藩主光政の命のより前奉行

香取に代わって、児島の新奉行に取り立てられた。

それから寛文五年(1665年)正月二十二日まで十年余り児島の郡奉行を務めた。

奉行となった善右衛門は、森池、福林池、長尾の天王池など大小、十年間に三百余りの溜池を

造り修復した。

この十年刊の宿舎は一等寺であった。

その謝礼として、一等寺は地主不明の土地や小作田の地主となって、終戦まで豊な生活が出来た。

児島地域にとって石川善右衛門は得難い人物であった。

その業績を後世に伝えるため天城村大庄屋中島三良四郎宣光が石碑を建立した。

この碑は、由加蓮台寺の境内のあったが、今は、参道の元山門のあった右側の斜面に移設されてい

る。

表に「石川善右衛門成一之墓」と刻まれているが、墓ではない。

側面、背面に誰でも読めるようにと役千四百の漢字かな交じり文で、彼の功績が刻まれている。

墓地のついては不明である。

森池は元金坪池と言う名で、今の森池の中央辺りに昔の姿が残っている。

今の堤防を造るために毎日村々から多くの人が出て「千本づき」をしながら堤防を造った。

その長さ百二十間、水面凡そ六町九反、深さ九尺五寸。

この池が出来たため林村のたで池、松原池、松原下池は潰して新田とした。

そして林と木見の四十五町を潤す事が出来るようになった。

森池の名前は伝えられているように、木見の木と林の名を重ねた森の字から生まれた。

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Date: 2017.07.09 Category: 六十 森池拡張・石川善右衛門成一  Comments (0) Trackbacks (0)

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