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頼仁親王 姿見の井戸

6月15日久々の恵の雨の中、4本の標柱を建立いたしました。

皆様雨の中作業して頂きまして、ありがとうございました。


15 頼仁親王 姿見の井戸

IMGP1990_convert_20130617110316.jpg

郷内地区に名水と言われる井戸(泉)が三か所ある。一つはこの姿見の井戸、

二つ目は串田の「息継ぎの井戸」の標柱の立った井戸。

三つ目は曽原清田八幡の入口下の左側下にある井戸で、いずれも地下にある井戸いずれも地下水が滾々と

湧き出て、いかなる日照りの時も水が枯れるということはなかった。

ところが、近年三か所とも水脈が変わったのか水質が悪くなり、特にこの『姿見の井戸』

は6~7年前の林地区を襲った水害以来、水量がほとんどなくなってきている。

この井戸の上段に、延応二年(1240)二月にお父君、後鳥羽上皇の御影塔を建立され、

この墓前に参前に参拝される時、井戸水で身を清めて参拝されたと伝えられている。

三つ目は曽原清田八幡の入口下の左側下にある井戸で、いずれも地下にある井戸

IMGP1991_convert_20130617213000.jpg


頼仁親王


頼仁親王(よりひとしんのう、建仁元年7月22日(1201年8月22日) - 文永元年5月23日(1264年6月18日)は、鎌倉時代初期の皇族。後鳥羽天皇の皇子で、母は内大臣坊門信清の娘西の御方。卿二位こと藤原兼子に養育される。号は冷泉宮。



承元4年(1210年)、親王宣下。母の姉妹が源実朝の室だった関係もあり、建保7年(1219年)の実朝横死後は一時後継の征夷大将軍候補に擬せられていた。

承久3年(1221年)の承久の乱の結果、父の後鳥羽上皇らが配流されると、親王もこれに連座して備前国児島へと流された。同地において薨去したとされ、一説には児島高徳の遠祖であるとも伝わる。

岡山県倉敷市にある修験道の寺院五流尊瀧院の歴代大僧正は頼仁親王の子孫が務めていると伝わる。

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Date: 2013.06.17 Category: 標柱建て  Comments (0) Trackbacks (0)

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