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11/17標柱建立

五流建徳院
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江戸時代中期に、京都寺通り柏屋勘右衛門、板元の「御入峯御行列記」が、発行されています。

こてを見ますと、諸国の大先達の先頭に、備前児島の五流が書かれていて、その筆頭に建徳院

の名が書かれています。

また、岡山藩主池田光政が、全国に先駆けて徳川家康を祭る社殿を東山に造営し、毎年春(四月.

藩主不在の年)または秋(九月)の十七日に祭礼が行われ、当日は午前六時に御輿は山を下り、

お旅所(兵団の旭川岸)まで渡御するのであるが、その行列は先頭がお旅所に着いた頃、後尾は

まだ東山の辺りにいたほどの長い行列で、通称「権現祭り」と言われ岡山最大の祭りとして、幕末

まで続いた。

行列は、五流建徳院の代表が、馬上から「権現同道」と号令をかけなかったら、出発は出来なかっ

たと伝えられているが、おそらく池田光政公の発想で、五流中の代表格である建徳院を指名したの

ではないかと思われる。

これらの事から、おそらく建徳院が五流の中で最右翼であったと思われる。

また、その一つと言える神符の版木が、この程建徳院の子孫である方のお宅に保管されている事が

判明した。

これは熊野権現本宮の神符と同じもので、八十八羽のカラスで描かれた鳥文字で、室町末期から、

江戸時代にかけて、この神符の裏が起請文として使われていた。

このように紀州熊野本宮と全く同じ神符が使われていたと言う事は、いかに本家新屋の関係が密接

であったかと言う証左になるものであり、これを保管していた五流建徳院が、池田光政公の時から

神官を置いたが、やはり代表格であったと思われる。

今ひとつ、明治五年、修験道は廃止の通達が出され、山伏は総て他の職業を求めなくてはなららく

なり、郷内の地を去るものもかなりいた。

この建徳院の門は、奔荘通生の般若院の門に生まれ変わった。

般若院は中本寺として、その客殿は実に堂々とした容姿で、この客殿のふさわしい正門となっている。

このことから推測すると、五流建徳院の建物も相当大きなものではなかったかと思われる。






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Date: 2012.11.24 Category: 五流建徳院  Comments (0) Trackbacks (0)

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