FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Date: --.--.-- Category: スポンサー広告   

10/20 標柱建立

今回は串田の西方寺裏山の麓辺りに、三本の標柱を設置する事ができました。

お集まり頂いた皆様、ご協力頂いた皆様に、深く感謝いたします。

そして私達の為に、お茶をご用意して下さった西方寺の奥様の、暖かいご配慮に

感謝いたします。

                                    

引き馬の嵶(西方寺裏から粒江へ越す峠)

解説 田辺進
藤戸の源平合戦(元暦元年1184)で、佐々木盛綱が馬で海峡を渡り、粒江側の平家を

倒した、その先陣として、波佐川庄(迫川庄)を賜るが、その海峡を馬で渡る浅瀬を教え

たのは、この引き馬の嵶に住む浦男であった。

この浦男は、盛綱が他の武士に浅瀬を教えぬように、殺されてしまう。

その母が、盛綱が我が家の近くを通る事を知って、この嵶で待ち伏せをして、息子をかえ

してくてと取りすがり、さめざめと泣いたと伝えられている。

当時、郷内側から、藤戸.天城へ行くには、この嵶越えしの道しか無かった。

一説には、乗馬のままでは進めず、馬を引いて歩かねばならぬ狭い山道から、この名が

おこったとも言い伝えられている。

IMGP1810_convert_20121021173014.jpg

息継ぎの井戸(西方寺裏の空き地山側)

源平合戦で、思いがけない敗戦に慌てふためいた平家の軍勢は、粒江から七つ池越え

(曽原方面)と、引き馬の嵶を超えて串田側へとなだれを打って逃げてきた。

串田側に逃げた将兵は、やっと嵶を超えて平地に降りた所へ、この井戸があって清水が

湧き出ていたので、この水で一息つくことが出来たところから、この名が付いたと伝え

られている。


 今ひとつは、鼻高山城を攻めた軍隊が、この泉で喉を潤し一息つけた所からという話

も残っている。

IMGP1808_convert_20121021130707.jpg

鼻高山城(西方寺の南西の城山。感覚的には西方寺の裏山)

海抜150米の山城であるが、交通路を抑える要地で眺望眼下に郷内が一望できる。

今も本丸及び二の丸跡は現存し、三の丸と堀切とは僅かにその姿をとどめるが、石垣な

どは全然使用された形跡がなく、築城された年代は不明である。

口碑に依れば戦国時代に、常山城主上月肥前守隆徳の弟の上月源三郎兼次という者が

城主であった。といわれる。

また西方寺の記録によると、天正の初年に岡山城主宇喜多直家が大軍をひきいて、この

城を攻めたが、城主は西方寺の加護によって、これを撃退したことが記載されているとい

う。




IMGP1795_convert_20121021130357.jpg


スポンサーサイト
Date: 2012.10.21 Category: 西方寺付近  Comments (0) Trackbacks (1)

この記事へのコメント:


管理人のみ通知 :

トラックバック:


>>まとめ【10/20 標柱建立】 from まっとめBLOG速報
今回は串田の西方寺裏山の麓辺りに、三本の標柱を設置する事ができました。お集まり頂いた皆様、ご協力頂 >READ

2012.10.23

サイズを記憶するフォントサイズ変更ボタン V1.1
文字を大きくする 文字を規定のサイズに戻す 文字を小さくする
プロフィール

郷内歴史保存会

Author:郷内歴史保存会
ご訪問有難うございます。

私達「郷内歴史保存会」は、
今消えつつ有る、地元の貴重な
歴史の足跡を後世に残す為に
発足致しました。

更新につきましては、まちまち
ですが、勉強会や説明会、及び
地区のイベント等の情報を載せ
ていけたらと思っております。


基本は楽しく歴史を学べる場と
して、老若男女、沢山の方々に
参加して頂けたらと考えています。


これからもどうぞ宜しくお願い
致します。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
ブログ翻訳(強化版)
powered by 3ET
powered by 電脳PC生活
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
このブログをリンクに追加する
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
フリーエリア
蝶が舞い花の色が変わるブログパーツ(Twitter連携可)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。