FC2ブログ

竹田貝塚

二十九 竹田貝塚

IMGP2102_convert_20131027110741.jpg

郷内小学校庭の北の部分を含め、旧海岸段丘の突端にある弥生式土器を有する

貝塚で、戸津田と同じく古い海岸線上にある。
スポンサーサイト



Date: 2013.10.29 Category: 二十九 竹田貝塚  Comments (0) Trackbacks (0)

後鳥羽上皇御影塔(供養塔)

「国重要文化財」後鳥羽上皇御影塔(供養塔)
IMGP2113_convert_20131027111547.jpg

尊瀧院の伝承によると、「後鳥羽上皇の御墓所は全国に三か所あり延応元年二月二十二日、

隠岐国に崩御あそばされると、荼毘に附し、御遺骨を三つに分けて奉葬した。

その一つは隠岐国にあり、その二つは山城国にあり、その三が備前国児島の当院の宝塔である」

とありますが、宝塔は地盤のゆるみから傾き、倒壊の危険もあるところから、昭和四十五年十月

一日から同四十六年二月二十八日まで、国の解体修理が行われ、合わせて諸調査が行われた。

それによると、全体が花崗岩で造られた宝塔で、塔身は円筒形で、首部は別石で造られている。

軸部の正面に大日如来の坐像が彫られこの左側の上下に扉軸の穴があり、この扉のため火力が

強められて、如来像がより不鮮明になったようだ。

上の首部には中程を台輪状の太い突帯が一周しており、その下方に四駆の飛天女を薄肉彫りに

刻んでいて、それは他に例を見ないものである。

笠石は方形造り、軒に強反りをもたせ隅増しが付けてあり、軒裏には二段に二軒形を作り出し

隅々には風鐸穴が残っている。

飛天女の彫りのある上部に、造り出した大柄の中央に口径九センチ、座経七センチ、深さ二十

センチの納骨穴(舎利穴)を穿ち、火葬にした遺骨と副葬品(骨片九十五、歯十二、香木八片

鉄製品の細片八十)が確認された。

このように確認出来た以上、供養塔ではなくて御影塔の方が適切ではなかろうか。

IMGP2112_convert_20131027111422.jpg


Date: 2013.10.28 Category: 二十八 後鳥羽上皇御影塔  Comments (0) Trackbacks (0)

大巌寺(正式名称=新熊野山十二所大権現別当大智院大巌寺)

寺領は、熊野神社西側裏の忠魂碑の所から山裾(昔、仁王門池新手)の所までで、

ここに不浄門という門があり、忠魂碑前の道にも門があったとのこと。

創建は不明であるが、熊野権現が鎮座されると共に創られたと云う。

そして、熊野権現をお祀りする三十五ヵ寺(非座衆)を束ねる寺として、また神仏

分離令がでるまで、最後の別当寺として尽くし、分離令後も明治十年頃まで、神職

になって奉仕された。

熊野権現にとって最悪難事は、応仁元年、横暴な振舞いで西阿知に逃げた円海一族に

よって、熊野権現関係の殆どが焼き尽くされた。

この再建尽力したのは、大巌寺住職天誉上人であった。

諸方を勧進して、遂に明応元年、一応の完成を見た。

その時の建築が現在まで残されているのは、国重文となっている左から三殿目の天照

大神を祀る「若宮殿」で、彩色わずかに残っている。

IMGP2110_convert_20131027111248.jpg
Date: 2013.10.27 Category: 二十七 大巌寺  Comments (0) Trackbacks (0)

由加参道丁石(五十四丁)

二十六 由加参道丁石

郷内中学校前の道路を熊野神社大鳥居に向かって進み、鳥居前の旧県道を右折した左側に

塀(以前は白色の塀だったとおもわれる)に囲まれた阿弥陀庵入口の門がみえる。

この門の入口右側に高さ十七センチ、幅三十五センチの花崗岩.舟形の丁石が豊島石の石仏の

後ろにある。

丁石の石仏の右に「従足 ゆが山へ五十四丁」左に『当村 佐藤里右衛門」と刻まれており、

ここから由加山まで丁度一里半という距離になる。

IMGP2075_convert_20131027102230.jpg
Date: 2013.10.21 Category: 二十六 由加参道丁石  Comments (0) Trackbacks (0)

高靈神社(高籠神社)

二十五 高靈神社 (高籠神社)(早立ち様)  
IMGP2069_convert_20131010151539.jpg

この神様は、雨風順応.五成就の守護をはじめ、厄除転福.難病平癒の神としてお参りが多く、

早立ち様と言われるように御かげが早く立つと言うので天城池田の殿様が毎年参拝をせられ、

正一位早立ち富の称号を賜った。

社の横の立札に『高靈神社(通称、正一位早立龍大明神)高靈神は雨を司る龍神。

毎年春.秋二回祭りに行っている。』と掲示されている。

昔は福江の二番祭りと言われて地方巡業の大相撲があったり屋台店がずらりと並んで本祭りに

劣らぬほどの賑わいであった。

IMGP2068_convert_20131010150735.jpg
Date: 2013.10.20 Category: 二十五  たかおかみ神社  Comments (0) Trackbacks (0)

福南山の天狗

二十四、副南山の」天狗
IMGP2060_convert_20131010150556.jpg

福南山には、十二の天狗が居る事が神社の記録にあり、また古人の伝説にも言い伝えられて

おる。

中には巨松に住んで居るのを近くで拝んだと言う人もいたが、それは大抵闇夜である。

                十二天狗の名称
正月.九用坊  二月.八正坊  三月.皆当坊    四月.海用坊

五月. 海当坊 六月.正妙坊  七月.五臓坊    八月.金当坊

九月.京法坊  十月.法正坊  十一月.祈祷坊  十二月.水井坊 


坊とは、部屋.離屋.別屋の意で、天狗の住まい処で、毎月輪番で福南山の神様へ奉仕せられた。


天狗(ウキュペディアより)

天狗(てんぐ)は、日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物。一般的に山伏の服装で赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。俗に人を魔道に導く魔物とされ、外法様ともいう。また後白河天皇の異名でもあった。


空海や円珍などにより密教が日本に伝えられると、後にこれが胎蔵界曼荼羅に配置される星辰・星宿信仰と付会(ふかい)され、また奈良時代から役小角より行われていた山岳信仰とも相まっていった。山伏は名利を得んとする傲慢で我見の強い者として、死後に転生し、魔界の一種として天狗道が、一部に想定されて解釈された。一方民間では、平地民が山地を異界として畏怖し、そこで起きる怪異な現象を天狗の仕業と呼んだ。ここから天狗を山の神と見なす傾向が生まれ、各種天狗の像を目して狗賓、山人、山の神などと称する地域が現在でも存在する。

したがって、今日、一般的に伝えられる、鼻が高く(長く)赤ら顔、山伏の装束に身を包み、一本歯の高下駄を履き、葉団扇を持って自在に空を飛び悪巧みをするといった性質は、中世以降に解釈されるようになったものである。

事実、当時の天狗の形状姿は一定せず、多くは僧侶形で、時として童子姿や鬼形をとることもあった。また、空中を飛翔することから、鳶のイメージで捉えられることも多かった[3]。さらに尼の転生した者を「尼天狗」と呼称することもあった。平安末期成立の『今昔物語集』には、空を駆け、人に憑く「鷹」と呼ばれる魔物や、顔は天狗、体は人間で、一対の羽を持つ魔物など、これらの天狗の説話が多く記載された。これは1296年(永仁4年)に『天狗草子』として描写された。ここには当時の興福寺や東大寺など7大寺の僧侶が堕落した姿相が風刺として描かれている。これら天狗の容姿は、室町時代に成立したとされる『御伽草子・天狗の内裏』の、鞍馬寺の護法魔王尊あるいは鞍馬天狗などが、その初期の原型であると思われる。

『平家物語』では、「人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根はえ、飛び歩くもの」とあり、鎌倉時代になると、『是害坊絵巻』を始めとする書物に、天台の僧に戦いを挑み、無残に敗退する天狗の物語が伝えられるようになる。また、林羅山の『神社考』「天狗論」、また平田篤胤の『古今妖魅考』に、京都市上京区に存在する「白峯神宮」の祭神である金色の鳶と化した讃岐院(崇徳上皇)、長い翼を持つ沙門となった後鳥羽上皇、龍車を駆る後醍醐天皇ら、『太平記』に登場する御霊が天狗として紹介される。

『吾妻鏡』天福2年(1234年)3月10日条の記述には、「2月頃、南都に天狗怪が現れ、一夜中にして、人家千軒に字を書く(「未来不」の三字と伝えられる)」と記述されている。『吾妻鏡』では、彗星に関する記述も多く記載されているが、この天狗の記述(13世紀中頃)に関しては、彗星ではなく、別の怪異(けい)と認識していたことが分かる。外観についての記述はないが、字を書けるということは分かる内容である(一夜にして千軒の家に字を書くことが、人ではなく、天狗の所業と捉えられた)。

天狗は、慢心の権化とされ、鼻が高いのはその象徴である。これから転じて「天狗になる」と言えば自慢が高じている様を表す。彼等は総じて教えたがり魔である。中世には、仏教の六道のほかに天狗道があり、仏道を学んでいるため地獄に堕ちず、邪法を扱うため極楽にも行けない無間(むげん)地獄と想定、解釈された。


Date: 2013.10.10 Category: 福南山の天狗  Comments (0) Trackbacks (0)

熊野道石造延命地蔵

二十三、熊野道石造り延命地蔵

熊野本宮の神輿を船に乗せて、瀬戸内海に難を避け安住の地を求めて三年、

琴浦石榴浜に上陸、上の町~稗田を通って峠まで来て休息、この休んだ所を後々まで

伝えるようにと地蔵堂を建てた。

この地蔵は川勝政太郎氏により頭光の背面に刻まれていた、三宅姓以下十二名の名前を

共に健治二年(1276)三月二十四日の刻名が判明した。


像は総髙十八センチ、返花座高二十四センチ、返花座を除いて頭光まで一石で造られていて、

耳は輪の様に彫られ、白豪をくぼみで表している。

(白豪には金がはまっていたとも伝われるー郷内の民話集)
IMGP2053_convert_20131010150224.jpg
IMGP2057_convert_20131010150414.jpg




Date: 2013.10.10 Category: 熊野道石造延命地蔵  Comments (0) Trackbacks (0)

児島高徳誕生の地

IMGP2037_convert_20131009172332.jpg
二十二、児島高徳誕生の地

日本が敗戦となるまで、小学校の教科書には児島高徳に関係する事項は歌や物語となり、歴史上の

重要な人物でした。

その高徳は尊瀧院で生まれている。


高徳の曽祖父は頼仁親王であり天皇家に対する思いは格別であった。

高徳の母は佐々木盛綱の後商 児島三宅備後守範長の娘信夫で高徳は三男、高徳七歳の時、外祖父

(母方の祖父)三宅範長の養子となり、武士の教育を受ける。

「郷内幼稚園の前辺りの地名を『三宅屋敷』と言い、高徳が十歳頃まで養子だったといわれる。」

その後、西大寺会陽で名高い観音院対岸の少し上流射越に三宅一族は館を構えて、養父は和田備後守範長

と名乗った。

ここ射越から邑久町にかけて一族とされる射越.和田.今木.大富など名字と同じ地名のある地域で和田大明神

とよばれる石のそばに「児島高徳公発祥地」と刻まれた石碑が立っており、この辺りに和田屋敷があったと伝

えられている。





Date: 2013.10.08 Category: 児島高徳  Comments (0) Trackbacks (0)

十五夜丹蔵の碑

二十一、十五夜丹蔵の碑

由加北参道の森池に立つ由加大鳥居から尾原の方へ約百メートル程進んだ左山側の目の高さに「十五夜丹蔵」と

刻まれた石碑がある。

丹蔵の本名は小原惣右衛門といって大阪角力の幕下まで進み、千田川部屋の頭取となった郷土出身力士で、帰郷後

はこの石碑のある位置からもう少し上にあった段々畑の中に庵を建って住んでいた。

丹蔵は相撲が強いだけでなく人の世話をよくし、村祭りの草相撲では勧進元になって若者の面倒も良く見ていた。

六尺余りの美男子だったので、池田の殿様の{お六尺」をつとめていた。                   

「お六尺」とは殿様を乗せた駕籠が増水の大川を渡る時、場合によれば両手で駕籠を差し上げたまま自分は水の中

を進む役のこと。

相撲はもともと武士の楽しみで、屋敷内に土俵が作られ、上段の屋敷に坐って大名たちが見物して楽しんだのが始まり

で、江戸初期には庶民には見物も興行も禁止されていた。

しかし、段々民衆の力が強くなり、江戸中頃から、勧進相撲が許されるようになり、岡山藩では貞享四年(1687)

八月に林の熊野権現から七.八の祭礼に権現境内で勧進相撲を行いたいと、大守神官と大願寺社僧の連盟で願が出さ

れ、藩は三日間の興行が許可された。

この期山伏は峰入りで不在であった。興行の記録は無い。

IMGP2009_convert_20131008162658.jpg

石碑に」慶応二寅年七月五日とあるが。命日と思われる。

この石碑は、村人達が丹蔵の顕彰と供養のために生前住んで居たこの地に碑を建てたそうで、一説にはこれが墓石で

あるともいわれている。

尚、当時この辺りは段々畑が梅林となっており、春は梅の花が一面に咲き、前の森池との風情を古市金峨が絵にしてい

るという。

IMGP2012_convert_20131008162844.jpg






Date: 2013.10.08 Category: 十五夜丹蔵の碑  Comments (0) Trackbacks (0)
サイズを記憶するフォントサイズ変更ボタン V1.1
文字を大きくする 文字を規定のサイズに戻す 文字を小さくする
プロフィール

郷内歴史保存会

Author:郷内歴史保存会
ご訪問有難うございます。

私達「郷内歴史保存会」は、
今消えつつ有る、地元の貴重な
歴史の足跡を後世に残す為に
発足致しました。

更新につきましては、まちまち
ですが、勉強会や説明会、及び
地区のイベント等の情報を載せ
ていけたらと思っております。


基本は楽しく歴史を学べる場と
して、老若男女、沢山の方々に
参加して頂けたらと考えています。


これからもどうぞ宜しくお願い
致します。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
ブログ翻訳(強化版)
powered by 3ET
powered by 電脳PC生活
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
このブログをリンクに追加する
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
フリーエリア
蝶が舞い花の色が変わるブログパーツ(Twitter連携可)