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波止岡の首切り地蔵 .血洗いの池

かつて、このあたりが海であった頃の名残りが地名.波止岡になったと伝えられる。

地蔵堂棟札 「首切地蔵改築平成二年施主大賀組合」

首切地蔵   小さい地蔵様 作年代不明 首と胸は初めから離れて作られている。

地蔵尊    台右側面に「此の地蔵尊は今より五百年前室町時代此処にて罪人の
         首切場に供養の為立てられしもその後祭る人もなき折柄、此度公民
         館建設と共に波止岡組合総意の元に新たにお祭り申上也」

郷内村当時の説明板(昭和三十年頃の作成とおもわれる。)

 「室町時代作 石造首切地蔵地蔵尊立像 室町時代此処が刑場であったと伝えられ

  供養のため安置された堂は初めは総朱塗りであって約三百年経過す 
     
                       郷内文化財保護委員会」


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血洗いの池

地蔵堂.大法顕篋印塔の裏に昭和の時代後半頃まで沼地の姿で残っていた所と伝えられている。

処刑に使った刀等を洗ったと伝えられている。

大法篋印塔   「為供養也、大峰山上天明二年(1782)壬寅十一月十五日施主三沢平右衛門武定」

自然石      「奉納大乗妙典日本回国天保七年(1836)」
           「天下和順 日月清明 行者当邑」

由加参道丁石  「三十八丁」 「瑜伽山へ福田新田五割ノ内」
           「左者(は)ざ川 八者(葉)満(ま)道」
           昔の位置より場所は変わっている。

一本松葉の松   一本松は二本のものであるが、この松は全部一本葉である。
           木村卯太郎氏が四国で買い求めて自宅に植えていたが、大賀公民館新築記念に
           氏は館前に植樹した。
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Date: 2013.09.05 Category: 波止岡の首切り地蔵  Comments (0) Trackbacks (0)

新熊野三山の「諸興寺」跡

熊野三山の一つとして、新宮に見立てた諸興寺は、小字下木見から寺内にかけて、

七堂伽藍が建ち並んでいたと伝えられるが、熊野権現と共に応仁の乱に伴う戦火に

殆どが廃塵に帰し、諸興寺についての記録は何も残っていないと云われる。

しかし、「吉備温故秘禄(灰寺の部)」には「その遺跡を見ると泉池古井が存在し、

灰寺であることが判り、付近の田から時に古瓦の破片が出土するが、その紋様形質から

すると、その建築時代は少なくとも鎌倉時代以前のものであると推知することができる」

と書かれている。

また、昭和48年発行の倉敷市史第二冊の〜頼仁親王墳墓考のところに、頼仁親王の墳墓は

備陽国志に拠れば、「宝治元年(1247)4月12日、五流尊瀧院に死去し給い木見村諸

興寺に葬り、その所を「若宮御霊殿という」とあり、今諸興寺は廃願して僅かにその地名を

存するに過ぎざるも、当時は在ては雄大なる巨刹たりしことは同署廃寺の部に「五流尊瀧院は

修験道の寺院なれば、主として祈祷を修するものにあらざれば、これを避けて通常の寺院なる

諸興寺に埋葬法要せられたるを至当とすべし」とある。

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Date: 2013.09.03 Category: 新熊野三山の「諸興寺」跡  Comments (0) Trackbacks (0)
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郷内歴史保存会

Author:郷内歴史保存会
ご訪問有難うございます。

私達「郷内歴史保存会」は、
今消えつつ有る、地元の貴重な
歴史の足跡を後世に残す為に
発足致しました。

更新につきましては、まちまち
ですが、勉強会や説明会、及び
地区のイベント等の情報を載せ
ていけたらと思っております。


基本は楽しく歴史を学べる場と
して、老若男女、沢山の方々に
参加して頂けたらと考えています。


これからもどうぞ宜しくお願い
致します。

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