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諸興寺のお薬師様

諸興寺のお薬師様

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新熊野三山であった内の一つ、木見の諸興寺は早くから無住寺となり、荒れ果ててきていた。

諸興寺の本尊である薬師如来像の所有について江戸時代(元禄年中一六八八~一七0四)五流山伏側と有南院

(後の一等寺)との間で所有権の争いがおこされていた。

この裁判記録が木見の三沢保氏宅に保管されているが、裁判は結論無し。

神仏に関する問題は、たたりを恐れて常時そのままにしている事例が多かった様だ。

薬師如来坐像は損傷が激しく文化財指定の対象外だが、各部に平安.鎌倉時代の特徴を残した古仏である。

と福田史談会会長 高橋氏は記している。

一説に六十四番札所 荘内滝の正蔵院本尊が、諸興寺の薬師如来座像であるとも言われている。

なぜ、この地に安置されているのかについての記録は無い。

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Date: 2013.05.19 Category: 標柱建て  Comments (0) Trackbacks (0)

薬師庵 薬師如来立像

薬師庵 薬師如来立像 

最近、庵の東側から大型車も横付けになる道が完成している。

福江側から来る「へんろみち」が正面右にあるが、文字通り人一人通れる昔のままの道である。

入口「大師道」側面「(梵字)」唯心知正信女」「明治三十五年三月二十二日」の石標、札所右境内に入る正面に

「児島百番霊場、秩父第三番薬師庵」、側面に「大正弐年七月建立 発起人 古市柳吉」

名号石 さきの尖った自然石に阿弥陀如来、勢至菩薩の梵字と「南無阿弥陀仏」、側面に「文化六己年(一八0九)
二月吉日建立之施主武平」

狛犬、自然石の台石の上に立つ阿吽の唐獅子(年代不明)

おそらく神仏混合時代の寄進であろう。

石燈籠 竿に「常夜灯」とあるが年代なし。

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札所児島百番観音秩父三番 薬師庵

宗旨真言宗 本尊薬師如来

開基 応仁年中(一三九四~一四二八)

薬師堂正面の本堂で、宝形造り平向排つきで西に一間の軒を出した本瓦葺きであったが、平成4年境内の南にあっ

た旧大師堂「外壁の寄進者銘板に文化十一年(一八一四)とある」を解体撤去し、本堂の軒一軒の張り出しも撤去

して本堂に接続して一棟として、本堂の屋根は銅版葺きとしたが、以前の様に宝珠.伏鉢.露盤を載せている内部は

本堂続きの一部屋とした。

本堂礎石は鎌倉時代と推定、上の柱は 欅の丸柱」で、ほぞ穴があり、他寺の古材利用である。

伝承 熊野権現を新築した時、その長床古材をもらって建てたと伝えられている。

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Date: 2013.05.19 Category: 標柱建て  Comments (0) Trackbacks (0)

舟形如意輪観音

舟形如意輪観音(西国33観音第一番) 

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(木見33観音.第一番)とも呼ばれている。(住心院境内)

この観音様は、西国33観音の第一番の紀州西岸渡寺の如意輪観音様で、この一番札所から天満宮の西側を通って

住心院の奥ノ院毘沙門堂に至る間に」、33体の観音石仏を配置して造られたミニ西国霊場。

この霊場を発願したのは山田弥吉で、弥吉の家は旧県道から正無田方面に入る三叉路の処「はりまや」という屋号

の家。

伝えによると明治の初め、弥吉は西国33観音霊場巡りをして帰ったが、当時は大変な日数と費用が入用であった。

店に来る、特に女の人たちから羨ましがられ、弥吉は意を決して木見にミニ西国霊場をつくり、皆さんにご利益

を受けていただくことを決心した。

これは西国33観音霊場に参って、そのお寺で祈念してもらったお砂を持ち帰り、奉納されたその霊場の石仏の

下にお砂を埋めるところの石仏にお参りすれば、現地の霊場にお参りしたのと同じ御利益が受けられる、と言われた。

この石仏を寄付して下さる人を』募ったが、主に畑から熊坂にかけての奉納者の名前が石仏に刻まれている。

一霊場にずつ完成させていったので、約20年を要して満願を迎えたとのこと。



山田弥吉奉納一番札所の石仏は、豊島石のため風化が激しくなったので、高木住職が新しく発注

して平成21年お迎えした如意輪観音である。




如意輪観音

日本では「如意輪観音菩薩」、「如意輪観世音菩薩」、「大梵深遠観音」などさまざまな呼び方があるが、重要文化財等の指定名称は「如意輪観音」となっている。また「救世菩薩」とも呼ばれる。

如意とは如意宝珠(チンターマニ)、輪とは法輪(チャクラ)の略で、如意宝珠の三昧(定)に住して意のままに説法し、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意とする。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を摂化するという。



Date: 2013.05.19 Category: 標柱建て  Comments (0) Trackbacks (0)

5月18日標柱建立

本日今期初の標柱建立が、行われました。

地盤が硬く、なかなか苦戦を強いられる所もありましたが、おいで頂いた皆様の苦労の末、

無事4本の標柱を建てることができました。

ありがとうございます。



毘沙門天立像(厳谷毘沙門堂)〈木見)

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参道 ①住心院の奥ノ院なので、住心院から始まる西国33観音に従って、奥ノ院である巌谷毘沙門天に至る参道

   ②寺内の木村清司氏宅横にある「道標」道から登る。

   ③下木見西中家裏の「自然石道標」のある道を登る。

開基 毘沙門堂の神域は、かつて新宮諸興寺境内であったと伝えられ、山伏の修行.祈りの行場であったと、思われる
諸興時の開基と同時に開山された業場と思われる。

毘沙門天とは(ウキペディアより引用)

インド神話の財宝神クベーラを前身とする。毘沙門という表記は、ヴァイシュラヴァナを中国で音写したものである。

ヴァイシュラヴァナという称号は本来「ヴィシュラヴァス (vizravas) 神の息子」という意味で、彼の父親の名に由来するが、「よく聞く所の者」という意味にも解釈できるため、多聞天(たもんてん)とも訳された。日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。

三昧耶形は宝棒(仏敵を打ち据える護法の棍棒)、宝塔。種子はベイ(vai)。毘沙門天に捧げられた真言としては「オン ベイシラマンダヤ ソワカ」[1]等がある。

その姿には様々な表現があるが(後述)、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。持物は宝塔が一般的で、また、邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗ることが多い。例えば密教の両界曼荼羅では甲冑に身を固めて右手は宝棒、左手は宝塔を捧げ持つ姿で描かれる。ただし、東大寺戒壇堂の四天王像では右手に宝塔を捧げ持ち、左手で宝棒を握る姿で造像されている。奈良當麻寺でも同様に右手で宝塔を捧げ持っている。

インドにおいては財宝神とされ、戦闘的イメージはほとんどなかった。この頃の性格についてはクベーラの項を参照。中央アジアを経て中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれ、四天王の一尊たる武神・守護神とされるようになった。そして帝釈天の配下として、仏の住む世界を支える須弥山の北方、水精埵の天敬城に住み、或いは古代インドの世界観で地球上にあるとされた4つの大陸のうち北倶盧洲(ほっくるしゅう)を守護するとされる。また、夜叉や羅刹といった鬼神を配下とする。

また、密教においては十二天の一尊で北方を守護するとされる。また日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、特に勝負事に利益ありとして崇められる




上杉謙信と毘沙門天

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 長尾 景虎(ながお かげとら)は、戦国時代の越後国(現在の新潟県上越市)の武将・戦国大名。後世、越後の虎や越後の龍、軍神と称される。

上杉家の下で越後国の守護代を務めた長尾氏出身で、初名は長尾景虎。兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎(うえすぎ まさとら)と名を改め、上杉氏が世襲する室町幕府の重職関東管領に任命される。後に将軍足利義輝より偏諱を受けて、最終的には上杉輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。

内乱続きであった越後国を統一し、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、49年の生涯の中で武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に5回に及んだとされる武田信玄との川中島の戦いは、後世たびたび物語として描かれており、よく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大した。
自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされる




毘沙門天とムカデ
 毘沙門天には意外な使者がついている。ムカデである。毘沙門天を祀った鞍馬寺では、昔正月の初寅の縁日に「お福むかで」といって生きたムカデを売った。(といっても漢方薬に使ったらしい)七福神の絵のなかにも、毘沙門天の横にムカデを描いたものもあるが、なぜムカデなのかというと、これも謎である。
 毘沙門天が鉱物を掘る鉱山師や、その鉱物を加工する鍛冶師などにも信仰されていたという形跡がある。そこから推理すると、ムカデは鉱山の神ともされているが、それは細長く連なる鉱脈の形や鉱山の穴がムカデの形に似ているからであろう。そうなると、鉱山の神=ムカデ=毘沙門天という関係がでてくることになる。(小学館「東京近郊・ご利益散歩ガイド」東京散歩倶楽部編著から転載)


Date: 2013.05.18 Category: 毘沙門天立像  Comments (0) Trackbacks (0)
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郷内歴史保存会

Author:郷内歴史保存会
ご訪問有難うございます。

私達「郷内歴史保存会」は、
今消えつつ有る、地元の貴重な
歴史の足跡を後世に残す為に
発足致しました。

更新につきましては、まちまち
ですが、勉強会や説明会、及び
地区のイベント等の情報を載せ
ていけたらと思っております。


基本は楽しく歴史を学べる場と
して、老若男女、沢山の方々に
参加して頂けたらと考えています。


これからもどうぞ宜しくお願い
致します。

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