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 池田お類様の墓

お類様
この件については、前年の当歴史保存会総会の席上、講演をお願いした

池内節光氏が「倉子城第二十二号」に「お類様の謎」と題して調査された

記録が記されているので、その中から転記させてもらう。

尚、この墓地は中学生の頃「児島めぐり」(昭和十一年刊)という冊子を手にして

友達とこの場所に出かけたことがあるが、当時はまだ土塀が残っていた記憶が

ある。

墓誌は異体字を多用し、難解な漢語もあるので誤りがあるかも知れないが、趣旨

は呑み込めた。

最初の生い立ちを語る部分に「幼名類」「幼い内に父を失い、父の正室に仕えた。

二兄に仕えては敬愛した。」とあるが、具体的な氏名は出て来ない。

さきの「児島めぐり」では「室は天城・池田の出」と断定しているが、お類様出生を

宝永五年(1708)とすると天城・池田家の四代由勝が宝永元年に死去しているか

ら、他家から養女に入ったことになる。

この年、岡山・池田家から五才の保教が養子に入り、同六年にその弟の六代・正

純へバトンタッチするので、この兄弟の娘でもあり得ない。

ただ「二兄に仕えては・・・」という説明が天城・池田との関係を暗示しているだけで

ある。

そこで夫の稲葉正長であるが、ちょうど『岡山県史・岡山藩文書』に享保六年の「家

中知行髙文帳」があり、番頭に任じられて来た名家である。

『金川町史』に、岡山藩家老・日置氏の六代・忠昌の室が「稲葉四郎右衛門正勝女」

と紹介されている。

岡山藩のいわゆる「奉公書」をたどるとこの助五郎、宝永二年(1705)に父・四郎衛門

が病死し、僅か三才跡目相続を許された。お類様より六歳年長である。

享保八年「四郎衛門」を襲名、鉄砲組を預かった。

同年八月には矢柄に改名している。
知行が千五百石に減っているのは、藩政建直しのための減俸で、本人の責任ではなさ

そうだ。

正長の跡目は長男小膳がついでいるが、小膳は享保十六年に生まれており、同年十六

年にこの世を去ったお類のこではありえない。

ところが、お類様の墓の傍らには「稲葉正長
にnri次男幸之蒸墓」と彫られた墓が立っている。

高さ50㎝の花崗岩製の小振りの墓碑で、側面には元文二丁巳十一月 日」「一歳」とある。

勿論お類様とは無関係である。

「墓はその人が死んだ」と言う原則に従って考えるなら、やはりお様は天城・池田家ゆかりの

女性であり、里帰りして療養中に病死した。 そこ稲葉家の知行地の一つであった串田へ葬られた。

お類様の従って伊稲葉家のに入った女性が正室となり、この地へ帰って雪之丞を産んだが亡くなっ

たので、お類様に託することのした。 こういう構図も成り立つのではなかろうか。

同地の真言宗・法性山西芳寺に安置されている位牌と照合したところ戒名は「霊覚院殿慈室奉恵大

師」と見え、裏面には「享保十六年辛亥歳十一月十二日行年甘四歳・稲葉四郎衛門之妻」との類書

があった。

この位牌も高さ51㎝、金泥眩い笠塔婆で、台座が痛んでいる以外立派なこしらえである。

この寺も火災にあったとかで過去帳やお類様についての伝承は残されててない。
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Date: 2017.07.03 Category: 四十八 池田お類様の墓  Comments (0) Trackbacks (0)
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