仁王門池

郷内中学校門側の熊野大社大鳥居を目指して進んだ鳥居の左側の広場(遊園地)が、


以前は仁王門池と呼ばれた池せあった。プールの無かった頃の子供達は、夏はプール

のように使っていた。

この池の西側の道路は、忠魂碑の立つ辺りにあった大願寺への道路であって、その入

り口辺りに仁王門がここにあった。

そこから仁王門池と呼ばれていた。

仁王門
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Date: 2017.07.19 Category: 六十三 仁王門池  Comments (0) Trackbacks (0)

相引池の用水路

相引


広江の堺のある相引池から曾原の山裾(清田八幡宮の下から一等寺の下を通って)から

串田・西方寺が、淀みなく相引池の水を流している。

この一定のリズムで流れて行く水路を造るために、次のようにして水路を造ったと伝えられ

ている。

相引池から串田へ向けて同じ高さの高張り提灯を並べて、夕闇の中でこれに点灯し、笹間の

福岡山の麓か、熊坂の天満山の麓辺りから見れば、一目でその高低は判別出来た。

Date: 2017.07.15 Category: 未分類  Comments (0) Trackbacks (0)

阿弥陀庵(山伏寺覚城院跡)

阿弥陀庵


ここは元山伏寺であったため、境内には「長床宿老」の肩書が刻まれた墓石が、

かなりの数があったが、本道寺の大修理の時、整理されたようで今はない。

新熊野大権現が神仏分離令により、大巌寺が廃寺となって児島四国代五十三番

「札所」を覚城院跡に移設されたのが、阿弥陀庵である。

入口門の左に、高さ1.5メートル、幅61センチの自然石に「五十三番札所」と力強く

彫られて、側面に「嘉永二茜三月」とあるが、年号からもわかるように、元大巌寺

にあったものの移設である。
Date: 2017.07.12 Category: 六十二  阿弥陀庵(山伏寺覚城院跡)  Comments (0) Trackbacks (0)

森池拡張・石川善右衛門成一

石川善右衛門


承応3年(1654年)日照り続きであったところ、7月18日から降り出した雨は豪雨となり、

翌日には旭川の水は岡山城下のあふれ出て大洪水となった。

これは城下だけでなく備前藩の国中に及んだ。

当時の記録によると、流出破損家屋、侍屋敷439件、足軽屋敷573件、町屋443件、農家

22,248件、死者156人、荒廃した田畠、11,360石とある。

この時、藩主光政は、江戸より帰国中であったが、知らせを聞くと直ちに家来を先に帰らせ

て処理させた。

8月8日帰国した光政も、自分の目で確かめて、「この国から一人でも困窮者を出してはなら

ぬ」と言って、城の蔵えお開き米や銀子を国中に施し、足らぬ分は借金までして施した。郡奉

行も手不足であろうと、馬廻りの中から優秀な十人を選び郡役所に派遣した。

石川善右衛門は児島の郡ぶぎょう香取茂右衛門の手助けに配属された。

復旧工事が一段落すると皆、元の持ち場に帰ったが、善右衛門は藩主光政の命のより前奉行

香取に代わって、児島の新奉行に取り立てられた。

それから寛文五年(1665年)正月二十二日まで十年余り児島の郡奉行を務めた。

奉行となった善右衛門は、森池、福林池、長尾の天王池など大小、十年間に三百余りの溜池を

造り修復した。

この十年刊の宿舎は一等寺であった。

その謝礼として、一等寺は地主不明の土地や小作田の地主となって、終戦まで豊な生活が出来た。

児島地域にとって石川善右衛門は得難い人物であった。

その業績を後世に伝えるため天城村大庄屋中島三良四郎宣光が石碑を建立した。

この碑は、由加蓮台寺の境内のあったが、今は、参道の元山門のあった右側の斜面に移設されてい

る。

表に「石川善右衛門成一之墓」と刻まれているが、墓ではない。

側面、背面に誰でも読めるようにと役千四百の漢字かな交じり文で、彼の功績が刻まれている。

墓地のついては不明である。

森池は元金坪池と言う名で、今の森池の中央辺りに昔の姿が残っている。

今の堤防を造るために毎日村々から多くの人が出て「千本づき」をしながら堤防を造った。

その長さ百二十間、水面凡そ六町九反、深さ九尺五寸。

この池が出来たため林村のたで池、松原池、松原下池は潰して新田とした。

そして林と木見の四十五町を潤す事が出来るようになった。

森池の名前は伝えられているように、木見の木と林の名を重ねた森の字から生まれた。

Date: 2017.07.09 Category: 六十 森池拡張・石川善右衛門成一  Comments (0) Trackbacks (0)

伝 岡福山山頂砦跡

福岡サン

何か



通称、福岡山と言っている熊野神社の裏山が、福岡山頂砦跡で、蜂峰山からの尾根筋が

鞍部のくびれで、あたかも独立峰的な雰囲気の山容を見せる小山で、中世城郭研究会19

98年第12号に縄張図が記載されている。

鞍部を隔てた向かい側の尾根上にも極輪らしき平地が直列階段状に並んでいるが、縄張り

上の重要拠点であるその続きの山頂に、防御装置構築の痕跡が確認できない事と、更にそ

の先の尾根筋付近に両側左右へ堅堀らしきものを落とした痕跡もある。

これらは熊野神社の背後の神域を区画した結界の一種と考えられ、城郭遺溝とは異質な土

木構造物と考えている。

以上は茶屋町の光畑克己氏が調査されたものであるが、氏は亡くなられていて、これ以上の

事を知ることはできない。

想像するのに、秀吉が備中高松城攻めの時、協力の依頼があったが、これを拒否した時、急

遽、防衛の手立てをしたことは想像出来る。


山頂福岡山

Date: 2017.07.08 Category: 五十九 伝 岡福山山頂砦跡  Comments (0) Trackbacks (0)
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ご訪問有難うございます。

私達「郷内歴史保存会」は、
今消えつつ有る、地元の貴重な
歴史の足跡を後世に残す為に
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更新につきましては、まちまち
ですが、勉強会や説明会、及び
地区のイベント等の情報を載せ
ていけたらと思っております。


基本は楽しく歴史を学べる場と
して、老若男女、沢山の方々に
参加して頂けたらと考えています。


これからもどうぞ宜しくお願い
致します。

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